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2006年 10月 10日
Pont neaf(ポンヌフ橋)を過ぎてまだ西へ進むとHo^tel de ville(パリ市役所)が見えてきます。
2006年 09月 23日
コモダです。今日はセーヌ川沿いで撮った三枚の写真を送りました。「セーヌ」と聞いて真っ先に何をイメージされますか?「ラ・セーヌの星」!とお答えの方はかなり私のジェネレーションに近くていらっしゃる!が、普通、一連のフランス映画のワンシーンを思い浮かべる方が多いのでは?それも、必ず甘く切ないもの・・・個人的にはジュリエット・ビノシュ主演の「ポンヌフの恋人」が一番に頭に過ぎります。あの映画も映像のほとんどが夜で、セーヌの有りのままがさらけ出されることは稀で、良いイメージだけを抱く方には申し訳ないのですが、セーヌの水は綺麗ではありません。どちらかと言えば濁ってさえいます。なのに、なお彼女が「美しい」と称される所以は?理由は個個様々だと思いますが、パリに住む一人の外国
人として客観的な目で見て感じるのは、先ずは地理的な問題で、ご存知の通りパリは完全な内陸地で海からはかなり離れた場所に位置しています。パリに流れ込む唯一の川、セーヌ。人間の本質として、常に身近に存在する大きな「水」に絶対的な安心感を求めるのは至って当然なことだと思います。また、これはセーヌだけに限ったことではありませんが、パリが「世界で最も美しい街」と言われる理由。私なりの解釈ですが、それは町並み、建物、店構え、街路樹、公園、そういった全ての゛objet"(対象物)が大変センスよく調和され、それも驚く程の「さりげなさ」でもってそこに存在していること。セーヌに関して言えば、やはり彼女を見守る周囲の環境や空気が彼女自身の中にしっかりと溶け込み、お互いの魅力を高め合っている のでは?と思えてなりません。三つ目に、パリに住む恋人同士なら、必ず一度はここを訪れる筈。手を繋いで楽しい会話を楽しみながら、glace(アイスクリーム)やsandwichを頬張りながら、時には、凍りそうな寒い夜、二人寄り添いながら、甘い言葉に時間も忘れていつまでも過ごした時もあったかも・・・その記憶はいつもセーヌの姿と共に留められます。セーヌを愛おしむ人は過去に何か素敵な想い出を持つのかも。そうでなくても、誰かが残して行った追憶のかけらを思うだけで、キュンとさせてしまう。そんなambiance(雰囲気)がここにはあります。 le 23, septembre 2006年 09月 23日
更に西へ。コンコルド広場方面へと向かう手前辺り。私は、この辺りのSeineの雰囲気が気に入っています。お昼も比較的観光客が少なく、落ち着いた気持ちでブラリ歩きが出来ます。
2006年 09月 23日
次にMuse'e du Louvre(ルーブル美術館)。そのコレクションの貴重性と収拾量、そして伝統。あまりに有名なこの美術館ですが、既に建物自体の存在感に価値があります。私は外観が好きで、特にあまり気付かれない小部屋を外からこっそり覗きながら歩くのが好きです。
2006年 09月 23日
Pont neaf(ポンヌフ橋)を過ぎてまだ西へ進むとHo^tel de ville(パリ市役所)が見えてきます。
2006年 09月 13日
![]() h.p.に自分の姿を公表するのも、携帯電話で自分で自分の顔を写すのもこれが初めてです! なんかやつれて見えますが、元気です。 無理して笑うと余計に恐かったので、普通に写りました。 でも、元〈エ・クルール>のお客様でなく、 私の顔をご存知なかった方には、ちょっとがっかりだったかも知れませんよね? もう少し綺麗に写れるよう次回はがんばっちゃいます! ![]()
2006年 09月 12日
大変ご無沙汰してしまいすみません。
パリに身を置いてから早くも三ヵ月が過ぎました。 うすら寒かった五月末から一変、 六月半ばから七月末にかけての猛暑はかなりきつかったです。 「日本と違い湿気がないから楽」だというのは頭では分かっていても、 ジリーっと照り付ける重い太陽と、なんと言っても一切冷房設備のないメトロの暑さには降参。 でも、不思議なことに、こちらの人は顔に汗をかかない! ポタポタと流れ落ちる汗をタオル地のハンカチで常に拭っているのはいつも私一人でした。 しかし、ご婦人方の夏の装いは刺激的でした。 暑いから仕方ないと言うものの、堂々と露にされたデコルテだけでは物足らず、 上半身にビキニのような究極に露出度の高いキャミソールだけで オフィスに向かう方もチラホラ・・・これには私も参りました。 だけども、ねちっこいイヤラシさを感じさせないのは、 彼女達のさっぱりした考え方や物腰によるところが大きいでしょう。 日本人の美徳として「見せない」美しさというものがありますが、 ここラテンの情緒を留めるフランスでは「見せる」美しさを学びたいですね。 惜し気もなくさらけ出す肌に健康美が伴えば最高! 美しい肢体の持ち主には知性すら感じられます。 が、ここパリでも完璧な美しさを備える人はそう多くありません。 そういう人とすれ違う時は息を飲みます。 そして、自分もしっかりお腹に力を込めて歩こうと改めて意識します。 女性の美しさは、着ているお洋服の値段やブランドの知名度では決まりません。 自分の中の最も「良い」部分をいかに上手に表現するか、だと私は信じています。 この国の夏のいいところ・・・それは、日本の男性の目線がないことです! 全員でないにしても、成人して久しい大人の男性のその幼稚さと陰湿さを留めた視線が、 新聞の間から感じられる時、いつも私は、 まだまだ日本で健全な「見せる」美しさを確立させることは難しいなと思っていました。 日本の男性諸君! もう少し自信に充ちた目線で女性を見て下さい!と言いたいところです。 かく言う私!sexyかどうかは別として、 この夏、ここパリで夏のお洒落を思い切り楽しませてもらいました! 最近、モンマルトル(「アメリ」で有名になった地区ですが)のアパルトモンに引越ししました。 私の生活をより身近に見て頂きたいので、お部屋の写真を何枚かご紹介します。 お気に入りの部屋を探すのには一苦労しました。また、お便りします。 では・・・ ![]() ![]()
2006年 02月 17日
また、この映画のもうひとつの大きな魅力は、言うまでもなくやはりその独特のシナリオにあると思います。ごく身近で新鮮な目線を通して見えてくる「日常の輝き」から私達に「今、生きている」ことを改めて認識させてくれます。その見せ方がさりげなく、それでいて観客の心に確かな変化を起こさせる、スマートでウィットに富んだそのシナリオは私の好みにピッタリと合いました。
アンが最後に見たかったのは、行ったことのない、想像を越えた遠い外国の土地ではなく、絵はがきで見るようなリゾート地でもない、普段から見慣れたあまりにも平凡な日常の場所でした。特に私のお気に入りはこんなくだりです。―いつものスーパーでの買い物が好き。たくさんの商品の中から自分の好きな物を選ぶ瞬間が好き。たまには「これは健康に悪そうだな」と知りつつそれでも同じようにバスケットに放り込む、その行為が好き。普通に無愛想なレジの店員さんも大好き。物・物・物・・・町は物で溢れてる。安い物、高そうな物、自分の欲しい物、興味さえ湧かない物、そんな物達はいつも優しく私に語りかけてくれる。色々な物の中で私は埋もれていたい・・・―こんな感じだったでしょうか?このあたりのシーンは、まるで私自身の感覚をそのまま切り貼りしたかのようにそっくりで気持ち悪い位でした。世の中には、そっくりな感覚の持ち主がいるものだなと感心しました。そして、この場面が、決してアンの買い物好きや物欲を語っているものでないことは説明するまでもありませんが、生への執着をこんなかたちで伝えようとするこの点こそが、同ジャンルの映画の中にあって、ことさらこの作品をキラリと輝かせる理由だと私は思うのです。 私達は普段、日常の中にずっぽりとはまり込んでしまっているがあまり、自身の姿を第三者的に眺めてみることはほとんどありません。つまり、そこからいなくなる自分を想像すらしないでいるのです。昔の偉大な哲学者の言葉にこんなのがありました。「人生とは、人が生まれてから死ぬ迄の間に継続して行う大いなる暇つぶしである」詳細不明で申し訳ないのですが、こんな内容だったと思います。どんな人も生まれたらいつか必ず終わる、この掟に抗うことはできないし、また同時にこれに従う為にのみ生まれくると言っても良い。各々様々な生き方はあっても、その人生の最後が訪れる瞬間を忘れる為に日々忙しいふりをしているに過ぎない、とも受け取れるのです。 これを私流に解釈してみると・・・人は、その命を授かる際、予めその人に見合った分量の砂の入った砂時計を同時に与えられて生まれくるのだと考えています。そして、この世に産声を上げた瞬間にその砂時計は逆に向けられ時を刻み始めます。それ以後その砂は最後の一粒が流れ落ちる時まで常に単調な、でも恐ろしく正確なリズムを保ちながら私達と共にあり続けるのです。この砂時計の存在は誰にも知らされていません。でも、確かにそれは今も私達の中の何処かに埋め込まれていて、美味しいケーキを食べる時も、仕事に追われている時も、楽しい計画に胸躍らせる時も、いつどんな時も情け容赦なく同じ速度でその残量を減らし続けているということ、このことを少しでも顧みることができれば、自然とネガティブな感じ方、考え方とは疎遠になってゆくものです。今、目に映る全てが愛しく見えてくるに違いないのです。自分を中心にして繰り広げられているかのような、当たり前に過ぎてゆくこの日常からいつか必ず自分だけが引き離される時が訪れるのです。私もつい、苛立ちや一時の感情に身を任せてしまいそうになった時には、この砂時計を思い出すようにしています 。泣いても笑っても同じ時間しか過ごせないのなら、自分の好きな方の私でいようと思うのです。だけれども、今現在私は自分に残された砂の量を知っているわけではなく、ただ想像しているだけに過ぎないのですから、もうほんの少ししか残されていない事実を突然目の前につきつけられたアンの心の動揺を思い、自分に重ねてみるだけで、暴れだしてしまいそうです。ただ少なくとも、彼女自身が語っているように、その後の彼女の日常はどれほど静かで美しい輝きに満ちていたことか・・・彼女がいつものようにベッドで娘達とじゃれ合うシーンがあります。明るく楽しいはずのあの場面は、母親の立場にある人にとっては絶対、心を押し潰されるくらいの悲しいひとこまではなかったでしょうか? この作品の完成度を高めているのはシナリオだけではありません。良い映画全てに同じことが言えると思いますが、タイトルへのこだわりが作品自体の存在感に大きく貢献しているのです。(あくまで本題のタイトルで邦題ではない。特にこの映画の邦題は嫌いです)“My Life Without Me”ここでアンの思いの全てが語られていると言っても過言ではないでしょう。“Without”なのだから本来もう“My Life”は存在しないはずです。アンがいなくなった後に残るのは彼女以外の人達(特に家族)の“Life”とするのが自然なのですが、あえて“My Life”としたのは、自分の肉体がなくなったその後も何らかのかたちで自分の思い描いた人生が生き続けることを願うアンの祈りを暗示したかったからではないかと思われてなりません。それは家族の小さな幸せを見守ることすら叶わなかったアンの唯一の希望であり、また、その希望があったからこそ、本当は思い残すことの方が多かったに違いない彼女がほんの少し救われた、否、そうであって欲しいという作り手側の願いも同時に込められているような気すらしてきます。 そう、映画のエンディングでは、アンを囲む人達のその後が映し出されています。ですが、あれは現実ではなく、アンの描く理想の姿なのだと私は思います。勿論、自然な流れだとうなづける部分もあるのはあるのですが。でも、どうでしょう。あれほど自分の人生を悲観することしかなかった母親が娘の死をきっかけに、別人のように前向きな人間に変われるとは到底思えないし、もう一人のアンがいくら人間的に信頼できる魅力ある女性であったとしても、そんなに都合良く新しい母親として受け入れられたかどうかも疑問です。案外、母親は娘との確執を悔いて、より絶望的な毎日を送るのかも知れないし、夫であるダンは悲しみからなかなか脱け出せずに苦しみ、娘達は、失って初めて、母から受けてきた愛の重さを知り、渇れない涙を流し続けたのではないでしょうか? それが現実では?アンが静かに目を瞑り夢の世界へ向かおうとする場面、その時私は心の中で彼女に向かってこう話しかけていました。「皆が思う以上にあなたは皆を愛しているんだけれど、その逆も同じ。そんなに簡単に皆はあなたを忘れることはできないはずだから」と。彼女が思う以上に皆も彼女を愛していることをどうしても伝えたくなって。 最後に、この映画の別の見所をご紹介します。演出は全体に淡々としていて、心の動きを大袈裟な音楽で煽るような小細工がないので、ロマンティックなシーンに使われるBGMがかえって効果的に響きます。悲しいから悲しい音楽なんて野暮なことはしないですね。ちょっとjazzyなメロディがこんなに切なさを募らせるなんて・・・ あと、登場人物の人間関係がごく限られた範囲のお話だということもあってか、話し言葉が身近な分、英語はかなり聞きやすく分かりやすいです。夫婦の会話、親娘の会話、子供達との会話、友達との会話、どれも関係代名詞や副詞句を使った、いわゆる長いセンテンスではなく、短いフレーズの連続です。大事なのは、相手に反応してそのフレーズのキャッチボールができるかどうかなんだ、ということがよく分かります。これは、英語力ではなく、私達にとってみれば母国語である日本語力でまず身につけておくべきだと思います。個人的な経験なのですが、教育実習(英語)で母校に帰り授業を担当した際、「自分の一番好きな暇つぶしは?」を初めに私が例文で言ってみせ、各々にメインの言葉だけを変えてみて下さいとお願いしたところ、なかなか進まず、要は自分自身についての意見(そんな代物でもないですが)を皆の前で話すことに対する気後れと、答えが思いつかない(暇つぶしは誰にもあるはずと信じていたのに!)ということみたいでした。この日本人独特の奥ゆかしさが、きっと英会話習得の足を引っ張っているんだと実感しました。 その当時から何か「話す」ことと「書く」ことを間接的にでも使える仕事がしたいと考えていたこともあり、だから私も多くの方と楽しく気持ちの良い会話ができる人になろう!と(できるだけ)心掛けてきました。っていうか、ただ言葉が好きなだけなのかも知れないのだけれど。 今回は、“My Life Without Me”という作品への思いを書くことで「私ってこんな人」を少しでも正確に皆様に伝えようとしたんですが、どうでしたでしょうか?とにかく、この映画をご覧になってない方の中で興味をお持ちの方、是非!また、もう観たという方も、もう一度!私ももう一度観ます。 《エ・クルール》はお洒落のお店ですが、ただお洋服や小物を提案する場所ではありません。お洒落を通して各々の人生を楽しもうという方々の“カフェ”のような存在になりたいと考えています。例えば、主催者である私の好きなスタイルや今、注目のブランドについてなら、写真などのビジュアル材料を使って簡単に説明できますが、その感性の起因するところを知って頂いたり、お互い共感することにより、自然なかたちでのお付き合いを深めてゆきたいと願っています。現在のところ、お店という空間はありませんが、もっと意外なきりくちでの営業活動も始めています。よろしければ、h.p.の内容も確認してみて下さい。では、また次回お会いしましょう。話題はいつも未定ですが・・・ # by etcouleur | 2006-02-17 16:17
2006年 02月 17日
“My Life Without Me”
結末が悲しいことがはじめから分かっている映画をあえて観るのは気がすすみませんが、この映画に関してはカバーのデザインに引かれて手に取ってしまいました。でも、その内容は差ほど大きな期待を持たずに見始めた私の鼻っぱしらを見事に折ってくれた、久し振りに胸の奥をジーンとしびれさせる一本でした。 主人公の命を題材にしたストーリーはいつの時代もあまたと存在し、中でも良い作品は私達の心を何より厳かにし、同時に誰しも少なからず抱いている自惚れや甘え、堕落した生き方自体をそっと戒めてくれるものです。けれども、その演出として私は「ここで感動しなさい」と言わんばかりのお説教臭い映画が好きではありません。登場人物や背景の設定も、いかにも悲劇を予感させるような現実離れしたものにはかえって構えてしまう為に心が固くなってしまうのです。何故なら、現実の死というものはもっと意外にあっけなく訪れ(だからこそ、生きている今この時を慈しむ心を忘れずにいたいのです)、そして、来たるべき事実をつきつけられる時、人の心は、どんな映像や効果音でも表現しつくせないほど孤独で深く暗いうねりの中にポトリと落とされてしまうのだから。 これは、入院生活(慢性的な持病が悪化し10代半ばの頃、数ヶ月単位の入院を何度か繰り返しました)の中で私自身が感じたことや、長男出産直後に彼の微妙な命の可能性について医師から告げられた時の心境など、ごく個人的な経験を通しての感じ方ですがあながち間違いだとも思えません。と言うのも、普通の生活の中ではほとんど意識されることのない人の生と死が(だからこそ不意に訪れる誰かの死は何となく非現実的で時にドラマティックですらあるのですが)、科学的根拠をもって目に見えるかたちで証明される病院の中では、それは日々当たり前のように繰り返される日常の一部に過ぎません。生の権利を得て生まれてきたもの全てに平等にもたらされる唯一絶対の権利(義務とも言えますが)が死である、このことは曲げようのない事実ですし、この事実からは誰も逃げられないということも皆、本当は知っているのです。ただそれに気付かないフリをしているだけ。それでも、中にはそれを許されず知らされざるを得ない人もいる、これも事実です。 いったい人間はその本能として、心に対する余りに突然の負担を拒絶する働きを持って自らを守ろうとする力を備えて生まれてくるのかしらと思える位に、この選ばれた人の当初の感覚は驚く程無感覚に近いものだと思います。私の場合、生まれて間もない我が子の病状について中堅キャリアらしき女の担当小児科医が、「どちらに転ぶか分からないとしか言えない」という内容の話を事務的かつ淡々とほとんど一方的に続けている間(この一切の私情を微塵も表さない担当医の身振り口ぶりは、必要以上に私を不安がらせない為の彼女流の思い遣りだったのか、大学病院という立場上、それほど稀でもないケースの患者にいちいち同情を示す余裕がなかったからなのか、今もって分かりません。)何の反応もできないまま、彼女の目が追う白い紙(そこには何十種類という抗生剤の名称がぎっしりと並べられていました)を見つめるだけが精一杯だったような気がします。それが私自身に向けられた説明であることを自覚する迄およそ一時間、それからどうやって自分の部屋まで戻ったのか覚えていません。感情という心の鼓動は暫くの間静止し、再びそれを取り戻す迄に私が要した時間となると4時間を有に越えていました。お昼に説明を受けてからやっと公衆電話まで辿り着いたのが夕方の5時過ぎ。(その当時まだ携帯を持ってませんでした)電話の相手から「どうした?」と聞かれて答えようとしたその瞬間、言葉よりも先に、それまで押し留めていた感情が一気に噴き上げてきて、受話器を固く握り締めたまま嗚咽したのは昨日の事のように生々しく残る鮮明な記憶です。 そういった状況下での感情は、およそ悲しいとか寂しいとかといった単純なものではなく、もっととりとめのない孤独感を伴うものなのです。自分の存在自体を追い詰める全ての感情によって肉体が乗っ取られる、そんな時、他人の如何なる慰めも耳に入らず、最高の友人である筈の音楽でさえも別世界の単なる娯楽としてしか思えなくなり、全ての人、物、音からたった一人引き離される完全なる孤独。そこにはドラマティックな回想シーンやメランコリックなBGMは存在しないのです。 ![]() この時の記憶が私の一部になって以来、こういったジャンルの作品に対して特に潔癖になってしまったのかも知れません。それでも、この映画の全てのシーンは私の中に自然に流れ込んできました。表情や動き、仕草や台詞がナチュラルで嫌味がなく、無理がないからこそ余計に悲しみは増すものです。しかし主人公のアンはこんな境遇を強いられるには余りにも若く余りに多くの可能性を秘めた女の子なのです。それがやるせなく腹立たしくもあります。その上、彼女が残してゆくものは余りに大きくて・・・残される者にとっての悲しみと、残してゆかなければならなかった者のそれとを比較することは愚かで且つ何の意味も持ちませんが、子を持つ一人の母親として彼女の心境は想像に耐えられない位痛々しく、ただただ無情としか言いようがありません。それでもなお、観る側の気持ちを引きつけるのは、どうしようもない現実を嘆き自暴自棄になることも、弱々しくうちひしがれることもなく、信じられない程の冷静さを持って事実を受け止め、最後まで自分に課した課題に対してたった一人で前向きに取り組んでゆく、その真摯な姿に私達自身の理想が重ねられるからではないでしょうか。そう、事実を知る以前、普段から彼女は決して恵まれているとは言えない環境の下、若くして二人の子供の母となり、持てる全ての能力と愛情を注いで家庭を支えてきました。でも、自分に与えられた境遇は変わりようがないのだという現実も知り抜いているのです。が、だからといって不平を鳴らしてグチを溢したり世の中を蓮かいに見たりもしない聰明な心の持ち主なのです。「仕方なく諦めよう」ではなく「与えられた環境の中で出来ることをしよう」という生き方は如何なる社会の中にあっても最も尊敬に価するものです。そんな、賢明で何の罪もない彼女が背負うこの運命は、全ての人間の罪を自らが一人で背負ったというキリストの十字架にも匹敵する程の意味を持つものだとは言えないでしょうか? 同様のメインテーマを扱った映画について数ある作品の中でも私は、特にこの作品が優れていると思う理由のひとつとして、単にある若者からその貴重な未来が奪われる無念さやその運命の皮肉さを訴えるだけでなく、現在の社会のあり方をリアルに映し出している点に注目してもらいたいのです。 人生観、価値観にずれのある両親、結局罪を犯し家族に対する責任を果たせなかった父親の存在、理想とはかけ離れた人生を嘆くことしかしない母親、精神の安定を食にしか求められず拒食と過食を繰り返す友人、安定した定職を得ることは不可能に近く、子供達には少しでもより良い環境をと望みはするものの、何ら変わらない現実・・・彼女の周囲には(いわゆる一般社会的観点から見て)ベストな物はおろかベターな物さえ見当たりません。ただひとつあるとすれば、それは彼女自身が持つ勤勉な精神とひとをまっすぐに愛そうとする強い心に他ならず、同時にそれこそが彼女の人生を救う唯一の力となっているとも言えるでしょう。文字通り彼女は誰にも頼らずに生きているのです。どんな状況にあっても愚痴らない彼女のすがすがしい生き方は、発展の陰で手付かずのまま放置されたもうひとつのアメリカ社会(元々歴史的に様々な顔を持つのがアメリカ社会の特色なのですが)の未来に一筋の光を投げかけています。同時に、この勇気ある彼女の死は、彼女に与えられた境遇(アメリカ社会の実情)に対する無言の抗議であったとも考えられるのです。その意味に於いて彼女の運命はキリストの十字架なのです。残された者の心に悲しみだけでなく、アンの精神や生きている間には叶えられなかった願い(「真理」に価するもの)をも深く刻みつけていったことでしょう。 しかしながら、この映画の中では、問題は裏腹なパラドックスも孕んでいるのです。アンが最後迄にする事として幾つか挙げた項目のうちの殆どが、子供達が大きくなる迄のハッピーバースディの録音や好きなだけの煙草、出来る限りのお洒落などあまりに平凡で欲のない願いであり、そしてそれが、普段の生活の中で彼女が自らに対してどれ程ストイックであったかを語っているように思え、ふと我が身を振り返り恥じ入る人も少なくないのではないでしょうか?そして、項目のラストに書いた「誰かを夢中にさせる」。これは結果的には予想した以上の充実感を彼女に与えることになったのですが、それだけに二人にとっての傷も深いものにならざるを得ませんでした。しかし、ここで考えてみたいのです。もし、彼女にこの不幸な運命が訪れていなければ、この二人は出会っていただろうか?と。彼女は夫を愛していたし、夫であるダンもアンと娘達を愛し、経済的に不安定であることを除けばこれ以上ない位の理想的な関係を築いていた(もしかすると、足りない物があるからこそこの若い二人のシンプルでありながらその分思いやりに満ちた結婚生活が保たれていたのかも知れないのです)わけで、この出会いはアンの最後の時間がもたらした奇跡(実際には実現することのなかったファンタジーのようなもの)だったのかも知れないのです。最低限度の生活の為にただ働き、子供達を育てる事に追われる毎日の中では、そのような恋愛関係はまさしくファンタジーに過ぎなかった筈ですし、例え出会いはあったとしても、アンが家族を顧みず不倫に溺れる自分自身を許すとは思えません。それに、二人の間には生きてきた環境に大きな違いがあるのは事実で、ファンタジーとしてならそれは確かに魅力的な条件として受け入れられたわけですが、現実的には、彼の経歴や知性やエレガンスもアンにとっては単に憧れの対象にしかなり得ず、返って彼女のコンプレックスを目覚めさせた結果、二人の関係は破綻していたのではないかとも思えるのです。それを知ってか知らずか、アンは彼を愛したのです。限られた時間の中でこそ実現されるこの恋を通して彼女が得たかったものとは・・・それはまさしくアンが心の奥底で、潜在的に思い描いていただろう夢だったに違いないのです。 もし、もう少し恵まれた家庭環境の下に育っていたなら、もし、もう少し高い教育を受 けることができていたなら、この恋愛も憧れなんかではなく現実のものになっていたのでは?でもアンの運命はそれを許さなかった。だから、彼女は自分自身について彼に何も語らなかったのでしょう。ただ「愛している」ということ以外何も。自分の生い立ち、自分の家族、自分の残された命についても。同情や憐れみからではなく「今、見えている自分」をただ愛して欲しかったのでは?つまり、彼と過ごす時間は、夫や子供達、母親、アン自身でさえ知ることのなかったもう一人のアンとしての人生を生きる奇跡の瞬間だったのです。彼女が仕事帰りの車中、僅かな時間に中国語を勉強するシーンが何度か見られますが、これは、もう一人のアンの可能性を示唆する重要な場面です。観客は皆、彼女の境遇や運命を歯がゆく思い、ともすれば同情心を募らせてしまいそうになるのですが、すぐに私達はその軽薄な感性を恥じたくなるのです。自分の人生を悲観せず、今ある状況を受け入れ正々堂々と生きる彼女を見ていると。それだけに、彼女が最後の恋に求めたものを思うと、胸が苦しくなるんです。 特にこの場面で―まばゆい緑の丘に車を止めて、車から静かに流れてくる心地よい音楽に包まれて二人が、優しく、でもとってもきつく抱き合うシーン―切な過ぎるけれど私は大好きです。あの時のアンは、全ての苦しみから解放され、生きているよろこびを魂で感じているように見えます。この人を好きにならない男の人っているのかしら?と思えるほど、キュートでそれでいて最高にエレガントなんですよね。 # by etcouleur | 2006-02-17 16:16
2005年 11月 23日
先日、入荷したばかりのインポート商品をご紹介しようと思ったところ、いきなりブログの初めのところに入ってしまい、前回のお話が消えてしまいました。そこで、映画のお話の二つ目をさせてもらおうと思います。前回は、特にフランス映画の「おしゃれ」について長々と書いたような記憶があるのですが、今回は一転スペイン映画の魅力とその「おしゃれ感」に触れてみたいと思います。題材に選ぶ作品はいずれもここ5~6年の間に発表された比較的新しい、ミニシアター系のちょっとオタクな映画です。
一つ目は、「オール アバウト マイ マザー」。こちらは、不意の事故で一人息子を失った母親が、息子には明かせなかった自分の過去をその死をきっかけに自分の足で振り返り、改めて現実を受け入れることによって自分の人生の意味を知る、というような内容だったと思います。主人公は年頃の息子を持つ40歳台後半のミセスの設定です。特別リッチではないですが仕事を持つ自立した女性像が自然に表現されています。肩の力の抜けた、でも決して若作りでないスタイルは勉強になります。特に、垢抜けたシルエットをさりげなく作り出すjkやコートのパターンもちょっとチェックしておくといつか役立つと思います。 次に、「トーク トゥ ハー」。恋愛映画としては変わった切口で話題になった作品ですが、やっぱり「うーん・・・」とうなりたくなる1本でした。事故で昏睡状態に陥った二人の女性を見守る二人の男、それぞれの愛のかたちと行く末、男達二人の間に生まれる友情や恋愛を超えた感情の存在など、一見複雑ですが、実際見てみるとドーンと心に響く作品です。個人的には、本編中ではほとんど眠っているバレリーナ役の女優さんに◎です。その目を閉じた寝顔の可愛らしさと、ほぼ反比例する裸体の美しさは、かなり私の理想に近いもので、改めて「無駄のないすっきりした体型に、少しふくよかな胸元の人」になれたらなぁ、と何度か溜め息が出ちゃいました。そして、動く彼女もまた良しです。稽古通いには適切なアクティブなスタイルなのですが、ちゃんと清潔感と個性が主張し合う魅力が感じられます。結局、自信に満ちたボディに衣装は不要ということでしょうか?色んな意味でこの映画お薦めです。 最後にご紹介するのは「靴に恋して」。現在公開中の米映画「イン ハー シューズ」(キャメロン・ディアスの出てるあれですね)とかぶりそうなタイトルですが、内容は全く違います。初めてレンタルショップで出会った瞬間からそのタイトル自体が私のおしゃれ心を掴んではなさなかったのですが、見た後も期待は裏切られませんでした。いえ、良い意味で裏切られたとも言えます。登場するのは5人の女性。主人公は彼女達の履いている靴。「女性がその靴を好んだり、こだわったりするのには、理由がある。そして、その靴先はいつも愛に向いている」というコピーがお話のイメージを伝えてくれています。5人は皆それぞれに全く異なる人格と境遇を持つ設定で、リッチなものからレアなものまで色んな靴が見れるというのは勿論なのですが、それよりもその5人全員が他の映画ではあり得ない位非常に人間味溢れる、生々しい演技を披露している点を高く評価したいです。そして、アニータの少女らしいキュートなスタイルにすんなり馴染むヴィヴィッドカラーのスニーカーは、スポーツシューズべたな私にとって大きな衝撃でした!とにかく、可 愛いくてナチュラル!近い将来私なりにアレンジしてスニーカーを履きこなしてみせるぞっ!という目標にもなりました。 フランスとスペインはお隣同士ですが、映画ひとつにおいてみても、雰囲気だけでなく香りも味も全然違うんだなあって、どなたも思われるのではないでしょうか?美しいものをより美しく見せるフランスタッチに対して、美しさの中に混雑する隠された部分(いわゆる同性愛やエゴ、目には見えない心の壁など)《タブー》と言われる部分に体当たりしてゆく大胆さがスペイン映画には感じられます。まさに、情熱《passion》の国ですよね。 また、ファッションに関しても同じような傾向が見られるのではないでしょうか?繊細なデザインや上品な華やかさに目を奪われることの多いフランス。かたや、スペインのファッションには、独創的な色柄のものもその人独自の個性や湧き出る人間味で着こなしてしまうという絶対的なパワーみたいなものが存在します。 とにかく!体が、心が、乾いてくるその前に是非とも上質な映画をお試し下さい。女性にとっては「心が潤っている」ことが何より大切です。ちょっとしたことにも、思わず反応するsensitiveな心を育むことは、どんな高価な化粧品でも得られない《アンチ エイジング》効果を生み出すはずですよ。
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